ちょっとそこまで映画を観に行って

映画を観た感想・レビューを書きます。日常から少し離れて、でも気軽に観に行ける映画はいいもんです。

『ふきげんな過去』(2016)

 

「海苔の本田の奥さん一人だけが正しくて、他が全部狂ってるのかもしれないじゃん」冒頭部の主人公・果子(二階堂ふみ)のこのセリフに心奪われた。

 

映画は何の説明もなしに会話がはじまる。運河?ワニ?ノリノホンダノオクサン?観ているこっちは正直ポカンだ。

次第に分かってくるのだが、どうやら海苔屋の本田という人がいて、その人の奥さんとの間の赤ん坊が東京のこの街の運河で、ワニに食われたのだと。そう言ってるのは海苔の本田の奥さんだけで、周囲は奥さんの頭が狂っていて、どうせ奥さん自身が殺したんだろうって言われている。しかも海水のあるここにワニなんかいるはずないだろうって。銛をもって運河を見つめ、ワニへの復讐を果たそうと一人たたずんでいる。

 

こんなとこの運河にワニなんかいない。いつだって常識ってものはつまらなく面白くない。そんな常識を世の大勢の人間は真実だと口をそろえて言うのだ。

 

 

 

そんな常識、クソくらえ。

 

 

 

この映画で起こっていることは、どれが真実で、どれが嘘なのか、観終わったあとでも分からない。

死んだはずの伯母・未来子(小泉今日子)が現れるが、飄々としていて生きた人間か、すでに死んでいる人間かも判別がつかない。若い頃から爆弾をつくりビルを爆破しただとか、今も爆弾づくりの腕(?)をめぐって組織から追われるだとか、「本当か?」と思えるような設定で物語はすすんでいく。

 

常識/非常識。真実/嘘。わたしたちは、はっきりと二分化された世界に慣れきってしまっている。

でも本当はちがうのだ。両者の境界は曖昧なもので、混じりあっていて、どちらともつかない世界が本当のすがたなのである。

この映画はそんな世界に浸ることができる。はっきりとした答えを強いたりしない世界に心地よさを感じられるのは、この映画の魅力である。

 

 

でも、そんな曖昧な世界のなかに、たったひとつだけ真実と分かるものがある。

 

 

迷子になった子どもの泣いて呼ぶ声。

街が眠るころ、家を抜け出し、小船に乗り、森をゆき、かつてはあった今はない村の御屋敷のお手洗いの跡で、爆弾の材料となる硝石を掘りおこす。

いとこの小学生のカナが、果子と未来子とはぐれてしまい、泣いて呼ぶのだ。「あの子迷子になったのかな」「そうね」「泣いてるね」「そうね」

 

誰もいなくて自分しかいない。不安におそわれ本能的に泣いて叫ぶ。”わたしはここにいる”と誰かに気づいてもらうために。

迷子が泣く理由はシンプルで明白だ。これ以外のほかの理由が入りこむ余地などない。

だから真実なのだ。この曖昧な世界のなかで、迷子が泣く声だけは確かさを持って響きわたる。

 

 

映画を観てからのある日、リオオリンピックの男子ゴルフが放映されていた。そして、そのゴルフコースに野生のワニが出没した。コースの池から頭を少しだけ出しているワニを見ながら、この世に起こりえないことなんてないのだと思った。

 

 

ふきげんな過去

2016/日/120分/東京テアトル/監督:前田司郎/出演:小泉今日子二階堂ふみ高良健吾、梅沢昌代、板尾創路