日常と映画と

映画も日常も、なくてはならないものです。

映画『白いリボン』(2009)<手紙>

 

 

 

 

※この文章には、映画の核心にふれる内容が含まれています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

長いスカートをゆらして歩くクララたち、そしてマルティンら少年たちが寄り集まって村を歩いていく姿が、恐怖とともに今も思い出されます。

 

 

 

誰が子どもたちをこんな風にしたのか。

 

 

 

父親、という身近で、逆らうことのできない絶対的な存在。帰りが遅ければ罰としてムチでたたかれる。”純粋無垢な子どもの心を忘れるな”と、腕に巻かれた白いリボン

 

 

 

身体的にも、精神的にも抑圧されることで、子どもたちは狂ってしまいます。

 

 

 

 

”罰”って、誰が与えるのでしょうか。

 

 

 

ドクターが落馬したり、男爵の息子・ジギが逆さづりにされたり、障がいをもった子ども・カーリーの顔面が血まみれになるほど殴られていたり。

 

 

 

村の大人たちは、”不吉な一連の事件”ってとらえてますが、

 

 

ちがうんですね、これ、

 

 

大人たちに向けた”罰”なんです。わたしはそう思いました。

 

 

 

 

クララの家みたいに、子と親の関係のほかに、男爵とか権力を持っている人と、貧しく雇われる側の人。

 

 

 

家も村自体も、誰かが支配している構図で、誰かが苦しまなければならない。

 

 

 

そんな構図がそもそも間違っている。その間違いへの”罰”、というか、警鐘なのだと。

 

 

 

 

 

また、子どもたちの話に戻ります。

 

 

 

親が(子に)罰を与える立場、っていうのが、だんだん変わっていきます。

 

 

 

子が、親(大人たち)に罰を与える立場になる。

 

 

 

その変容がこわいと思いました。

 

 

 

自分が行った悪いことは、自分の上に”罰”となってふりかかってくる、ということです。

 

 

 

そして最もおそろしいのは、狂気を生みだしたのは、まぎれもない自分たちなのに、当の大人たちはそのことに気づいていない、もしくは気づいても目をつむったことです。

 

 

 

希望はない、と思いました。

 

 

 

”罰”は繰り返されるだろうし、負のループはどこまでも続くのだと。

 

 

 

 

 

ラストシーンが象徴的でした。

 

 

 

教会に入ってくる大人たち。その2階で聖歌をうたう無表情の子どもたち。

 

 

 

抑圧される立場のはずの子どもたちが大人たちの頭上にいる。

 

 

 

 

いつでも”罰”が下せるように。

 

 

 

 

本当に、ぞっとしました。

 

 

 

 

白いリボン

Das Weisse Band-Eine Deutsche Kindergeschichte/2009/独、豪、仏、伊/144分/ツイン/監督:ミヒャエル・ハネケ/出演:クリスティアン・フリーデル

ブログについて/記事がのります

 

 

このブログでは、映画について文章を書きます。

 

 

 

ミニシアター系とよばれる分野の映画を中心に紹介していきます。

 

 

 

レビューのようにきちんと形にした文章から、だれかに宛てた手紙のような文章まで、映画の魅力を伝えられるものを書いていきたいと思っています。

 

 

 

映画の感想を聞いたりするといろいろな考えがあって、とても面白いと思いました。

 

 

「そうやんね、あのシーンがよかった」とか、「あっ、そんな風に思ったんや」とか、ひとつの映画から、たくさんのものが生まれてきます。

 

 

 

ここで書くことで、何かそういう経験がだれかのもとで生まれていけばいいなぁ、と、思っております。

 

 

 

 

そして今月末、はじめて記事が載ります。

 

 

 

taomoiya(タオモイヤ)さんという2人組ユニットが、毎月末に発行されている『雑文集』という文集です。

 

 

”友達の友達くらいが書いてる文集”ということで、エッセイや詩、写真、レビューなどの形式をとって表現されています。

 

 

 

taomoiyaさんと知り合ってから毎月愛読させていただいていますが、それぞれの方の個性がこんなにも伝わるものなんだな、と実感します。

 

 

 

今回ご縁があって『雑文集11』に記事を寄せてもらえ、これから毎月掲載させていただける、とのことです。

 

 

 

映画『アンナとアントワーヌ 愛の前奏曲』というレビューを書きました。

 

 

 

フランスの大人の恋愛を描いた作品ですが、人間の本質にも通じるようなメッセージ性に焦点をあてて、紹介しています。

 

 

 

 

『雑文集11』の入手方法です。

・10月30日~11月6日の期間、全国のセブンイレブンにある複合機で印刷できます。

・「ネットプリント」から、記事の番号を入力します。

 表紙:52574044 / 本文:00065208

・印刷代の280円だけかかります。

 

 

 

 

秋の夜長に、ぜひお読みいただければ嬉しいです。

 

 

 

『ふきげんな過去』(2016)

 

「海苔の本田の奥さん一人だけが正しくて、他が全部狂ってるのかもしれないじゃん」冒頭部の主人公・果子(二階堂ふみ)のこのセリフに心奪われた。

 

映画は何の説明もなしに会話がはじまる。運河?ワニ?ノリノホンダノオクサン?観ているこっちは正直ポカンだ。

次第に分かってくるのだが、どうやら海苔屋の本田という人がいて、その人の奥さんとの間の赤ん坊が東京のこの街の運河で、ワニに食われたのだと。そう言ってるのは海苔の本田の奥さんだけで、周囲は奥さんの頭が狂っていて、どうせ奥さん自身が殺したんだろうって言われている。しかも海水のあるここにワニなんかいるはずないだろうって。銛をもって運河を見つめ、ワニへの復讐を果たそうと一人たたずんでいる。

 

こんなとこの運河にワニなんかいない。いつだって常識ってものはつまらなく面白くない。そんな常識を世の大勢の人間は真実だと口をそろえて言うのだ。

 

 

 

そんな常識、クソくらえ。

 

 

 

この映画で起こっていることは、どれが真実で、どれが嘘なのか、観終わったあとでも分からない。

死んだはずの伯母・未来子(小泉今日子)が現れるが、飄々としていて生きた人間か、すでに死んでいる人間かも判別がつかない。若い頃から爆弾をつくりビルを爆破しただとか、今も爆弾づくりの腕(?)をめぐって組織から追われるだとか、「本当か?」と思えるような設定で物語はすすんでいく。

 

常識/非常識。真実/嘘。わたしたちは、はっきりと二分化された世界に慣れきってしまっている。

でも本当はちがうのだ。両者の境界は曖昧なもので、混じりあっていて、どちらともつかない世界が本当のすがたなのである。

この映画はそんな世界に浸ることができる。はっきりとした答えを強いたりしない世界に心地よさを感じられるのは、この映画の魅力である。

 

 

でも、そんな曖昧な世界のなかに、たったひとつだけ真実と分かるものがある。

 

 

迷子になった子どもの泣いて呼ぶ声。

街が眠るころ、家を抜け出し、小船に乗り、森をゆき、かつてはあった今はない村の御屋敷のお手洗いの跡で、爆弾の材料となる硝石を掘りおこす。

いとこの小学生のカナが、果子と未来子とはぐれてしまい、泣いて呼ぶのだ。「あの子迷子になったのかな」「そうね」「泣いてるね」「そうね」

 

誰もいなくて自分しかいない。不安におそわれ本能的に泣いて叫ぶ。”わたしはここにいる”と誰かに気づいてもらうために。

迷子が泣く理由はシンプルで明白だ。これ以外のほかの理由が入りこむ余地などない。

だから真実なのだ。この曖昧な世界のなかで、迷子が泣く声だけは確かさを持って響きわたる。

 

 

映画を観てからのある日、リオオリンピックの男子ゴルフが放映されていた。そして、そのゴルフコースに野生のワニが出没した。コースの池から頭を少しだけ出しているワニを見ながら、この世に起こりえないことなんてないのだと思った。

 

 

ふきげんな過去

2016/日/120分/東京テアトル/監督:前田司郎/出演:小泉今日子二階堂ふみ高良健吾、梅沢昌代、板尾創路

絶望のなかの希望―『わたしを離さないで』(2010)

 

 

 

※このレビューには物語の結末が含まれております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

主人公のキャシー、トミー、ルースは、臓器提供のために生みだされたクローン人間である。数度の提供がすめば死をむかえ、その短い一生を終える。人間としてではなく臓器をもった道具のような存在にすぎない。全編をとおして暗いタッチで描かれ、それは彼らが背負う未来のない運命、“死”を象徴しているかのようだ。

しかし、この映画は彼らの“死”を描いた作品ではない。ここには彼らの力強い“生”がある。どんなに絶望的な運命であろうと人間は生きようとする。“死”におおわれた世界のなかでも“生”へとむかう人間のすがた、それがこの映画が伝えたいことだ。

物語の終盤で、キャシーとトミーは長年の愛をみのらせる。この頃のトミーはすでに提供をおこなっており死に一歩ずつ近づいていた。二人はかつてデタラメだと言っていた「本当に愛し合う二人には提供までの猶予期間が与えられる」という噂を信じて申請にむかう。

ただ、そんな猶予期間は存在していなかった。幼少期をすごした寄宿学校の先生からその事実が告げられる。帰り道の途中で車をおりたトミーは運命をふりはらうかのように泣き叫び、彼を抱きとめるキャシーだった。

彼らの希望が打ち砕かれるこのシーンは観る者のこころを苦しくさせる。愛する者と一緒にいられず死を免れることはできない。その悲しみが痛いほど伝わってくる。

しかし先ほど述べたように、ここには生きようとする人間の力強さがある。トミーはキャシーとの愛を証明するためにずっと絵を描きためていた。たくさんの絵を先生に見せて必死にうったえるすがたは、愛する者と生きたいという強い想いのあらわれだ。

そもそも信じていなかった噂を信じようとしたのはなぜか。それはこの噂が彼らにとっての希望の光だったからだ。“死”がすぐそこに迫っていても、それに引きずりこまれることなく最後まで希望を胸に“生”を目指そうとしたのだ。

二人は“死”しかない自らの運命をなんとかして“生”に変えようとした。申請のために通された部屋で先生たちと向かいあう二人のすがたは、希望をもって絶望に勇敢に立ち向かうすがただった。希望をもった人間はゆるがない。それが人間の真の強さなのだろう。

キャシーたちは救われず、絶望的な運命を受け入れるしかない。それでもこの映画には絶望よりも希望の輝きのほうが色濃くうつしだされている。希望をもって“生”へと向かう人間の強さを私たちにうったえかける。

 

わたしを離さないで

Never Let Me Go/2010/英、米/105分/ 20世紀フォックス映画/監督:マーク・ロマネク/出演:キャリー・マリガンアンドリュー・ガーフィールドキーラ・ナイトレイ

 

 

映画『コングレス未来学会議』(2013)

部屋のそうじをしていたら昔使っていた手袋が出てきた。愛着あるもので捨てるかどうか悩んだが、お気に入りの水玉もようや糸のほつれ具合までも懐かしくなり、結局のこすことにした。大切なものときっぱり別れることは難しい。この映画もそんな気持ちを思い出させた。

舞台は近未来のハリウッド。新作映画の出演オファーも今はない40歳をすぎた女優ロビン・ライト。彼女のもとに制作会社からCGキャラ化の話が舞い込む。女優自身が演技をするのではなく、すがたかたち、感情までも生きうつしたCGキャラを作って映画に出演させるというのである。しかしその契約をすれば、女優は一切の演技は禁止される。ロビンは難病の息子をかかえる母親で、息子のためにも一度はつっぱねたその契約を受けることに。

ロビンが女優業をやめる苦悩はもちろんわかる。ただ大切なものを手放す苦しみが一番伝わるのは、ロビンのマネージャー、アルのシーンだ。

CGキャラ化を決めたロビンは、女優ロビン・ライトのすべてをスキャンする機械で人生最後の演技をすることになるのだが、途中でできなくなってしまう。そんなロビンにアルが語りはじめる。彼の話を聞くと自然な感情が引き出され、カシャカシャと機械のスキャン音が鳴る。

効率よくスキャンをおこなうために話しはじめたのかと思いきや、それは違う。これはアルにとって、大切な仕事のパートナーに別れを告げる一種の儀式なのだ。ゆっくりと一つ一つの言葉の意味を噛みしめるような話し方は、聴く者の心にうったえかける。大切なものとの別れはつらいが、その確かな決意が彼の口調にもあらわれている。アルを演じているのは、ベテラン俳優のハーヴェイ・カイテル。人の心をうつ演技はさすが、脱帽せざるをえない。

大切なものを手放す苦しみというテーマは実は前半部分のものである。後半の舞台は20年後の世界。人々は失うことの苦悩も大切なものは何かということさえもとうに忘れ、己の欲望を満たすためだけに生きる時代に突入する。映画のなかの女優を観るのではなく、自分自身がその女優になる。なりたいと思ったものには何にでもなれてしまうのだ。

そんな時代のなかでロビンがどう生きるかがテーマとなる。皆と同じように欲望に溺れて生きることも、自分の生き方をすることもできる。彼女はどんな選択をしたのか。また歯止めがきかなくなった欲望の世界が、最終的にどんな世界になってしまったのかも描かれている。

後半の大半はアニメーションである。色鮮やかで独創的な造形をしたイメージの数々には圧倒されてしまう。さらに終盤のアニメと実写の効果的な演出がほどこされたシーンは見どころである。

わたしたちが生きる現代でも、時代の流れによって多くのものが失われてしまった。この映画は失われることへの苦しみを描くと同時に、欲望を最優先させるならば、本当に大事なものを見失ってしまう人間の愚かさを問うている。独特な世界観をもつSF映画のなかに現代に通じる強いメッセージが込められている。

 

コングレス未来学会議

The Congress/2013/イスラエル、独、ポーランドルクセンブルク、仏、ベルギー/120分/東風、gnome/監督:アリ・フォルマン/出演:ロビン・ライトハーヴェイ・カイテルジョン・ハムポール・ジアマッティ、コディ・スミット=マクフィー、ダニー・ヒューストン http://www.thecongress-movie.jp/