ちょっとそこまで映画を観に行って

映画を観た感想・レビューを書きます。日常から少し離れて、でも気軽に観に行ける映画はいいもんです。

刮目すべき写真家の生態(映画「Don’t Blink ロバート・フランクの写した時代」より)

 

Don’t Blink(=まばたきせずに)と言われても、申し訳ない、何度もまぶたが下りてくるのと格闘しながら観ていた。

 

このドキュメンタリーは展開がはやい。

現像技師の話を聞いていたかと思えば別の友人や20歳で亡くなった最愛の娘の話になる。嫌悪がにじむほどの過去のインタビュー映像が切れ切れに挿入されたり、写真のカット、ロバートが撮った映画が流れては止まりまた流れたりする。

著名な歌手たちの曲がBGMとして聞こえ、とにかくお祭りドンチャン騒ぎのようなドキュメンタリーである。

 

 

観客は置いてけぼり。

悪くいえばそうなる。だが、これこそアーティストの生態を映した真の映画なのだ。

ロバートも「私が言いたいことは全て写真のなかにある」と言う。作品を生み出すアーティストに、その作品に対する丁寧な説明を求めるのは野暮ではないか。

 

つべこべ言わず作品を見よ。そこから何かを感じ取れ。

 

観客にこびない、あえて突き放すようなロバートのアーティスト気質を見事に体現した映画だといえる。

 

 

画面の切り替わりは多いが、『The Americans』が出版当初さまざまな批判を受け10年もたってから評価されるに至ったこと、移民であること、写真で生計を立てるむずかしさなど、ロバートの断片的な語りがやけに鮮明に頭にのこる。

 

 

写真を撮るとき、被写体がカメラを意識しない無防備な状態を狙うと彼は話した。

人間の本質をうつしとりたい、と。

私は映画のレビューを書くが、映画のなかで些細だけれどとても大事なワンシーンの瞬間を記憶にとどめ文章に書き起こす。

「一瞬をハンターのように狩る」という言葉は私の胸に刻み込まれた。

まばたきせずに目を凝らし、その一瞬を決して逃してはならない。

何かを生み出す人間にとって彼の言葉は教訓となりうるだろう。

 

 

Don’t Blink ロバート・フランクの写した時代

Don’t Blink – Robert Frank/2015/米、仏/82分/テレビマンユニオン/ローラ・イスラエル

http://robertfrank-movie.jp/

 

声の届く先(映画『標的の島 風かたか』より)

 

どうしてあれだけ怒って鬼気迫るように座り込みを続けるのか。

三上監督の映画を見るたびに染み込むように分かってきた。

 

 

自分より前の世代が体験した沖縄戦、後の世代の未来。

その間で今生きている自分たちが「風かたか」(=風除け)になるため必死で闘っているからだ。

 

 

日本の軍隊は沖縄住民の命を守らなかった。

戦争でその現実を知っているから、どんなに政府が説明会(肝心な内容は答えない建前だけのもの)を開くと言っても、沖縄の人たちの声を聞く深刻さは持っていない。

 

 

ひとりの人間として純粋に、三線で沖縄の歌をうたう声に心が震えた。

本当に伝えたい強い想いは人を感動させる。

博治さんが警察官に対し、標準語から沖縄口で話しはじめた時もである。

 

 

『戦場ぬ止み』でも思ったが、沖縄の声が届くべきなのはそこに住んでいない大勢の人間たち、警察官として直に声を聞き続ける人間たちだと思う。

 

 

自分の生活を送り、任務を全うする普通の「私たち」だ。

沖縄に住む人たちと同じ「私たち」なのである。

“兵士Aくんの歌”に乗せて映される映像はそのことを訴えている。

自身に降りかからなければ他人事では、もう、すまされないところまできている。

 

 

もうひとつ、三線の日に反対座り込みをしていた男性が、三線にのせて抗議の歌をうたうのは本当は嫌だけどね、と言っていた言葉は忘れられない。

 

 

標的の島 風かたか

2017/日/119分/東風/監督:三上智

http://hyotekinoshima.com/

“一週間”という毎日(映画「Every Day」より)

 

 

同じ時間を一緒に過ごすことに期限があるのはつらい。

 

どちらかが死んで、どちらかが生き続けるようになるのは、普遍のことで、そのことを頭のなかで分かっている。

 

でも、何気ない日常は当たり前すぎるから、いつの間にか忘れてしまう。

 

 

「一週間もらったの」

さっき見舞ってきたはずの大切な愛する人、咲ちゃんは言う。

交通事故で鼻にチューブやら通された意識不明の状態ではなく、エプロン姿でいつもの笑顔で元気な咲ちゃんだ。「え、え、」って三井くんがうろたえるのも無理ないと思う。

 

 

月曜日の朝、こうして二人の一週間がはじまった。

 

 

失った、と気付いたときはじめて、一緒に過ごしてきた時間の大切さを思い知る。

もう一度取り戻せるなら、その時間を噛みしめるように大事に、大事にしよう。

 この映画における一週間とは、三井くんと咲ちゃんがそう感じるための猶予期間、

そしてサヨナラをするために与えられたものだ。

 

 

終わりがくると分かっているのに幸福な一日一日を過ごさせるのは残酷だ。

「私に一週間をくれた神様はいい神様じゃなかったみたい」と咲ちゃんも言ってる。

 

 

けれどこの一週間で気付くのだ。

毎朝つくってくれるお弁当。キッチンからカウンター越しに渡される料理やお茶。ニコニコした笑顔。そして「ただいま」のあとの「おかえり」。

 

たくさんありすぎて埋もれて見えなくなっていた、キラキラした宝物のひとつひとつを拾いあげていく。愛は目に見えないというけれど、何気ない毎日のそこらじゅうに散りばめられている。

 

 

Every Day。生きているかぎり、いつかは期限がやってくる。

この二人が過ごした一週間のように毎日を生きていきたい。

 

 

Every Day

2016/日/95分/TEDOYA TOGO/監督:手塚悟/出演:永野宗典山本真由美、倉田大輔、こいけけいこ、谷川昭一朗、山内健司

http://everyday-movie.jp/index.html

記事の紹介をします

 

今月、記事を載せていただいたtaomoiya雑文集14について紹介します。

 

 

イカした写真、というのが初見の印象。白い車のフロントガラスに反射しているネオンや看板。賑やかな街並みの音がきこえてきそう。ハンドルを握る運転手のすがたはなく、そのかわりダッシュボードの上に寝そべる…いぬ、?毛並みからして、犬だろう。「夜の街をブイブイ飛ばしてやるぜ!」くらいに堂々とし、間違いなくその車内はその犬が牛耳っている。ボスの風格だが、犬の視線の先には“神戸牛”の赤いのぼり。そりゃあ、食欲には負けるわな。(taomoiya雑文集14の表紙写真より)

 

 

と、いう風に、掲載記事をひとつひとつ紹介しようと思っていましたが、そうすると印刷期間が過ぎてしまう。とりあえず出来上がった表紙写真の紹介文だけ書いておきますね。

 

 

taomoiya雑文集14の印刷方法です。

全国のセブンイレブンにある複合機で【ネットプリント】を選び、【表紙:83794699/本文:49931040】を入力します。印刷代260円をチャリンと入れますと印刷されます。締め切りは3月22日(水)まで。今日までです。

 

 

記事は全部で5つあります。

 

五感で春の到来を味わいつくせる「いつものワタシとハルさんについてのすこし」

春一番のあとにほっこり暖かくなるような「樋口さんと10人の楽団が起こした奇跡(映画『東京ウィンドオーケストラ』より)」

誰かにオープンにする領域と自分だけが大事にする領域とのはざまを書いた「宝箱」

語り継がれるものは遠い遠いお話ではなく私たちと同じ市民の暮らしである「『最前線物語』という名の、もう1つの『この世界の片隅に』。」

ふと今食べているメニューについて考えを巡らす「麻婆豆腐」

 

 

春という季節はいつの間にかやってきていた、という感覚が多いわたしですが、ぽかぽかとした陽気はのんびりと物事を考える余裕をもたらしてくれるかもしれません。

見過ごしがちなものに優しく目を向けてみる。そんな季節なのでしょうか。

 

 

それにしても、春っていい季節ですね。

 

 

『ホームレス ニューヨークと寝た男』(2014)

 

マーク・レイという男が屋上暮らしを続ける理由がよく分からなかった。

 

上品そうな靴やスーツを着てバリバリ仕事をこなしているようにみせているが、コードやらがむきだしの寝そべるのがやっとのスペースに寝袋で眠る。不法侵入者として捕まらないか、怯えながら階段を上り下りする毎日。

 

そんなんだったら故郷に戻ってのどかな場所で母親と暮らしたり、彼が語った「ここで結婚(?)して乗馬でもして暮らせたら幸せだろうに」っていうその“幸せ”を目指せばいいのに、って思う。

 

 

しかし、それはできない。

マークがこのニューヨークの華やかな表舞台、輝かしい場所に身を置きたいというかぎり、屋上暮らしは続くのだろう。

スーツとユーモアにあふれた話術で武装して闘いつづけるしかない。どこが生活拠点だろうと、この街にとっては関係のない話だ。

 

 

持ち家や賃貸だって、仕事にあぶれる不況のなかでは払いつづけて住んでいられる保証なんてどこにもない。アメリカも日本も、明日に不安を抱いて生きる人は本当に大勢いる。

 

 

風まかせで根無し草でさすらう52歳のマークの生活は、屋上で声をかけてきた青年のように羨ましいものにみえるかもしれない。

孤独と葛藤と体力の限界。

彼が実際に抱えているものはそれらだ。アメリカンドリームはやはり存在しない。

 

 

ただ、そんな彼の境遇でも救われた気持ちになったものが2つある。

 

ひとつは彼の友人の言葉だ。

マークの誕生日に来ていた友人が、昔仕事がなかったときにマークが2人分の仕事をとってきた、そういう奴なんだとカメラの前で語った。苦楽を共にした友人との絆はマークを支えている大きなものなのだろう。

 

そしてもうひとつは屋上から見えるニューヨークの風景だ。

夜景も朝焼けも、街と空を見渡せる。たくさんの不安な人間がいるにもかかわらず、美しい静止画のようにニューヨークの街並みが広がっている。マークをこの場所に踏みとどまらせているひとつにちがいない。

 

 

 

ホームレス ニューヨークと寝た男

Homme Less/2014/墺、米/83分/ミモザフィルムズ/監督:トーマス・ヴィルテンゾーン/出演:マーク・レイ/音楽:カイル・イーストウッド、マット・マクガイア

http://homme-less.jp/

 

雑文集12にたいする個人的な見解

2016年12月。

あと1ヶ月でなにができるかなぁ、と考えていたら、あっという間に2日が過ぎようとしています。うかうかしていられませんね。

 

 

今回も記事を書いています。お世話になっている taomoiyaさんの「雑文集12」に掲載していただきました。

 

映画『リスボンに誘われて』のレビューと、もうひとつ記事を書いています。どちらの記事も ”過去” についてです。今回のレビューは、2年ほど前に知人に書いた文章を書きなおしたものです。この「書きなおし」という行為自体が、”過去” というものを考えさせてくれました。もうひとつの記事では、その時に感じたことを書いています。

 

 

雑文集では、それぞれの方がそれぞれの場所で、自由につくられたものが編集され、記事となって集められています。なので、書く前からテーマが統一されている、ということはありません(…そうですよね?)。

 

ですが、この「雑文集12」では、みなさんがどうも同じテーマについて表現しているように思えてなりません。偶然の一致というものでしょうか。

 

 

ひとつのもの、出来事など。そういった対象は表面的に見ればそれはそれでしかない。

でも、その対象は実は「奥行き」をもっている。

見た目よりもずっと、やすらげるエピソードをもっていたり、あたたかな人の想いが込められていたり。

それだけの姿のほかに、もっと深く内側がある、

というようなテーマをどの記事も共有しているように感じました。

 

 

かなり抽象的な表現になってしまったので、例をあげます。

「雑文集12」の表紙の写真には、クリスマスの飾りがうつっています。

そして、その飾りを準備している男性もいっしょに。

 

わたしたちが街を歩くとき、そういう飾りは当たり前のようにそこにあります。きれいだなぁ、クリスマスだなぁと、その飾りを見てそう思うわけです。

その時に、この飾りつけをしてくれた人はどんな人なんだろう、ということを考えることは少ないのかもしれません(飾りつけしてくれた方に申し訳ないのですが…)。

 

飾り、という表面的なものの先に、飾りつけをしてくれた人、が確かにいるのです。

 

というようなテーマがあるように思います。これでも分かりにくい説明ですよね。苦笑 たくさんお話しましたが、心あったまる「雑文集12」をぜひお読みいただければうれしいです。

 

 

―雑文集12の印刷方法―

・全国のセブンイレブンにある複合機で「ネットプリント」から、表紙&本文①&本文②の番号(下記の写真参照)を入力する。

・300円で印刷できる。

・11月30日(水)~12月7日(水)まで印刷可能。

 

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映画『白いリボン』(2009)<手紙>

 

 

 

 

※この文章には、映画の核心にふれる内容が含まれています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

長いスカートをゆらして歩くクララたち、そしてマルティンら少年たちが寄り集まって村を歩いていく姿が、恐怖とともに今も思い出されます。

 

 

 

誰が子どもたちをこんな風にしたのか。

 

 

 

父親、という身近で、逆らうことのできない絶対的な存在。帰りが遅ければ罰としてムチでたたかれる。”純粋無垢な子どもの心を忘れるな”と、腕に巻かれた白いリボン

 

 

 

身体的にも、精神的にも抑圧されることで、子どもたちは狂ってしまいます。

 

 

 

 

”罰”って、誰が与えるのでしょうか。

 

 

 

ドクターが落馬したり、男爵の息子・ジギが逆さづりにされたり、障がいをもった子ども・カーリーの顔面が血まみれになるほど殴られていたり。

 

 

 

村の大人たちは、”不吉な一連の事件”ってとらえてますが、

 

 

ちがうんですね、これ、

 

 

大人たちに向けた”罰”なんです。わたしはそう思いました。

 

 

 

 

クララの家みたいに、子と親の関係のほかに、男爵とか権力を持っている人と、貧しく雇われる側の人。

 

 

 

家も村自体も、誰かが支配している構図で、誰かが苦しまなければならない。

 

 

 

そんな構図がそもそも間違っている。その間違いへの”罰”、というか、警鐘なのだと。

 

 

 

 

 

また、子どもたちの話に戻ります。

 

 

 

親が(子に)罰を与える立場、っていうのが、だんだん変わっていきます。

 

 

 

子が、親(大人たち)に罰を与える立場になる。

 

 

 

その変容がこわいと思いました。

 

 

 

自分が行った悪いことは、自分の上に”罰”となってふりかかってくる、ということです。

 

 

 

そして最もおそろしいのは、狂気を生みだしたのは、まぎれもない自分たちなのに、当の大人たちはそのことに気づいていない、もしくは気づいても目をつむったことです。

 

 

 

希望はない、と思いました。

 

 

 

”罰”は繰り返されるだろうし、負のループはどこまでも続くのだと。

 

 

 

 

 

ラストシーンが象徴的でした。

 

 

 

教会に入ってくる大人たち。その2階で聖歌をうたう無表情の子どもたち。

 

 

 

抑圧される立場のはずの子どもたちが大人たちの頭上にいる。

 

 

 

 

いつでも”罰”が下せるように。

 

 

 

 

本当に、ぞっとしました。

 

 

 

 

白いリボン

Das Weisse Band-Eine Deutsche Kindergeschichte/2009/独、豪、仏、伊/144分/ツイン/監督:ミヒャエル・ハネケ/出演:クリスティアン・フリーデル