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記事の紹介をします

 

今月、記事を載せていただいたtaomoiya雑文集14について紹介します。

 

 

イカした写真、というのが初見の印象。白い車のフロントガラスに反射しているネオンや看板。賑やかな街並みの音がきこえてきそう。ハンドルを握る運転手のすがたはなく、そのかわりダッシュボードの上に寝そべる…いぬ、?毛並みからして、犬だろう。「夜の街をブイブイ飛ばしてやるぜ!」くらいに堂々とし、間違いなくその車内はその犬が牛耳っている。ボスの風格だが、犬の視線の先には“神戸牛”の赤いのぼり。そりゃあ、食欲には負けるわな。(taomoiya雑文集14の表紙写真より)

 

 

と、いう風に、掲載記事をひとつひとつ紹介しようと思っていましたが、そうすると印刷期間が過ぎてしまう。とりあえず出来上がった表紙写真の紹介文だけ書いておきますね。

 

 

taomoiya雑文集14の印刷方法です。

全国のセブンイレブンにある複合機で【ネットプリント】を選び、【表紙:83794699/本文:49931040】を入力します。印刷代260円をチャリンと入れますと印刷されます。締め切りは3月22日(水)まで。今日までです。

 

 

記事は全部で5つあります。

 

五感で春の到来を味わいつくせる「いつものワタシとハルさんについてのすこし」

春一番のあとにほっこり暖かくなるような「樋口さんと10人の楽団が起こした奇跡(映画『東京ウィンドオーケストラ』より)」

誰かにオープンにする領域と自分だけが大事にする領域とのはざまを書いた「宝箱」

語り継がれるものは遠い遠いお話ではなく私たちと同じ市民の暮らしである「『最前線物語』という名の、もう1つの『この世界の片隅に』。」

ふと今食べているメニューについて考えを巡らす「麻婆豆腐」

 

 

春という季節はいつの間にかやってきていた、という感覚が多いわたしですが、ぽかぽかとした陽気はのんびりと物事を考える余裕をもたらしてくれるかもしれません。

見過ごしがちなものに優しく目を向けてみる。そんな季節なのでしょうか。

 

 

それにしても、春っていい季節ですね。

 

 

『ホームレス ニューヨークと寝た男』(2014)

 

マーク・レイという男が屋上暮らしを続ける理由がよく分からなかった。

 

上品そうな靴やスーツを着てバリバリ仕事をこなしているようにみせているが、コードやらがむきだしの寝そべるのがやっとのスペースに寝袋で眠る。不法侵入者として捕まらないか、怯えながら階段を上り下りする毎日。

 

そんなんだったら故郷に戻ってのどかな場所で母親と暮らしたり、彼が語った「ここで結婚(?)して乗馬でもして暮らせたら幸せだろうに」っていうその“幸せ”を目指せばいいのに、って思う。

 

 

しかし、それはできない。

マークがこのニューヨークの華やかな表舞台、輝かしい場所に身を置きたいというかぎり、屋上暮らしは続くのだろう。

スーツとユーモアにあふれた話術で武装して闘いつづけるしかない。どこが生活拠点だろうと、この街にとっては関係のない話だ。

 

 

持ち家や賃貸だって、仕事にあぶれる不況のなかでは払いつづけて住んでいられる保証なんてどこにもない。アメリカも日本も、明日に不安を抱いて生きる人は本当に大勢いる。

 

 

風まかせで根無し草でさすらう52歳のマークの生活は、屋上で声をかけてきた青年のように羨ましいものにみえるかもしれない。

孤独と葛藤と体力の限界。

彼が実際に抱えているものはそれらだ。アメリカンドリームはやはり存在しない。

 

 

ただ、そんな彼の境遇でも救われた気持ちになったものが2つある。

 

ひとつは彼の友人の言葉だ。

マークの誕生日に来ていた友人が、昔仕事がなかったときにマークが2人分の仕事をとってきた、そういう奴なんだとカメラの前で語った。苦楽を共にした友人との絆はマークを支えている大きなものなのだろう。

 

そしてもうひとつは屋上から見えるニューヨークの風景だ。

夜景も朝焼けも、街と空を見渡せる。たくさんの不安な人間がいるにもかかわらず、美しい静止画のようにニューヨークの街並みが広がっている。マークをこの場所に踏みとどまらせているひとつにちがいない。

 

 

 

ホームレス ニューヨークと寝た男

Homme Less/2014/墺、米/83分/ミモザフィルムズ/監督:トーマス・ヴィルテンゾーン/出演:マーク・レイ/音楽:カイル・イーストウッド、マット・マクガイア

http://homme-less.jp/

 

雑文集12にたいする個人的な見解

2016年12月。

あと1ヶ月でなにができるかなぁ、と考えていたら、あっという間に2日が過ぎようとしています。うかうかしていられませんね。

 

 

今回も記事を書いています。お世話になっている taomoiyaさんの「雑文集12」に掲載していただきました。

 

映画『リスボンに誘われて』のレビューと、もうひとつ記事を書いています。どちらの記事も ”過去” についてです。今回のレビューは、2年ほど前に知人に書いた文章を書きなおしたものです。この「書きなおし」という行為自体が、”過去” というものを考えさせてくれました。もうひとつの記事では、その時に感じたことを書いています。

 

 

雑文集では、それぞれの方がそれぞれの場所で、自由につくられたものが編集され、記事となって集められています。なので、書く前からテーマが統一されている、ということはありません(…そうですよね?)。

 

ですが、この「雑文集12」では、みなさんがどうも同じテーマについて表現しているように思えてなりません。偶然の一致というものでしょうか。

 

 

ひとつのもの、出来事など。そういった対象は表面的に見ればそれはそれでしかない。

でも、その対象は実は「奥行き」をもっている。

見た目よりもずっと、やすらげるエピソードをもっていたり、あたたかな人の想いが込められていたり。

それだけの姿のほかに、もっと深く内側がある、

というようなテーマをどの記事も共有しているように感じました。

 

 

かなり抽象的な表現になってしまったので、例をあげます。

「雑文集12」の表紙の写真には、クリスマスの飾りがうつっています。

そして、その飾りを準備している男性もいっしょに。

 

わたしたちが街を歩くとき、そういう飾りは当たり前のようにそこにあります。きれいだなぁ、クリスマスだなぁと、その飾りを見てそう思うわけです。

その時に、この飾りつけをしてくれた人はどんな人なんだろう、ということを考えることは少ないのかもしれません(飾りつけしてくれた方に申し訳ないのですが…)。

 

飾り、という表面的なものの先に、飾りつけをしてくれた人、が確かにいるのです。

 

というようなテーマがあるように思います。これでも分かりにくい説明ですよね。苦笑 たくさんお話しましたが、心あったまる「雑文集12」をぜひお読みいただければうれしいです。

 

 

―雑文集12の印刷方法―

・全国のセブンイレブンにある複合機で「ネットプリント」から、表紙&本文①&本文②の番号(下記の写真参照)を入力する。

・300円で印刷できる。

・11月30日(水)~12月7日(水)まで印刷可能。

 

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映画『白いリボン』(2009)<手紙>

 

 

 

 

※この文章には、映画の核心にふれる内容が含まれています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

長いスカートをゆらして歩くクララたち、そしてマルティンら少年たちが寄り集まって村を歩いていく姿が、恐怖とともに今も思い出されます。

 

 

 

誰が子どもたちをこんな風にしたのか。

 

 

 

父親、という身近で、逆らうことのできない絶対的な存在。帰りが遅ければ罰としてムチでたたかれる。”純粋無垢な子どもの心を忘れるな”と、腕に巻かれた白いリボン

 

 

 

身体的にも、精神的にも抑圧されることで、子どもたちは狂ってしまいます。

 

 

 

 

”罰”って、誰が与えるのでしょうか。

 

 

 

ドクターが落馬したり、男爵の息子・ジギが逆さづりにされたり、障がいをもった子ども・カーリーの顔面が血まみれになるほど殴られていたり。

 

 

 

村の大人たちは、”不吉な一連の事件”ってとらえてますが、

 

 

ちがうんですね、これ、

 

 

大人たちに向けた”罰”なんです。わたしはそう思いました。

 

 

 

 

クララの家みたいに、子と親の関係のほかに、男爵とか権力を持っている人と、貧しく雇われる側の人。

 

 

 

家も村自体も、誰かが支配している構図で、誰かが苦しまなければならない。

 

 

 

そんな構図がそもそも間違っている。その間違いへの”罰”、というか、警鐘なのだと。

 

 

 

 

 

また、子どもたちの話に戻ります。

 

 

 

親が(子に)罰を与える立場、っていうのが、だんだん変わっていきます。

 

 

 

子が、親(大人たち)に罰を与える立場になる。

 

 

 

その変容がこわいと思いました。

 

 

 

自分が行った悪いことは、自分の上に”罰”となってふりかかってくる、ということです。

 

 

 

そして最もおそろしいのは、狂気を生みだしたのは、まぎれもない自分たちなのに、当の大人たちはそのことに気づいていない、もしくは気づいても目をつむったことです。

 

 

 

希望はない、と思いました。

 

 

 

”罰”は繰り返されるだろうし、負のループはどこまでも続くのだと。

 

 

 

 

 

ラストシーンが象徴的でした。

 

 

 

教会に入ってくる大人たち。その2階で聖歌をうたう無表情の子どもたち。

 

 

 

抑圧される立場のはずの子どもたちが大人たちの頭上にいる。

 

 

 

 

いつでも”罰”が下せるように。

 

 

 

 

本当に、ぞっとしました。

 

 

 

 

白いリボン

Das Weisse Band-Eine Deutsche Kindergeschichte/2009/独、豪、仏、伊/144分/ツイン/監督:ミヒャエル・ハネケ/出演:クリスティアン・フリーデル

ブログについて/記事がのります

 

 

このブログでは、映画について文章を書きます。

 

 

 

ミニシアター系とよばれる分野の映画を中心に紹介していきます。

 

 

 

レビューのようにきちんと形にした文章から、だれかに宛てた手紙のような文章まで、映画の魅力を伝えられるものを書いていきたいと思っています。

 

 

 

映画の感想を聞いたりするといろいろな考えがあって、とても面白いと思いました。

 

 

「そうやんね、あのシーンがよかった」とか、「あっ、そんな風に思ったんや」とか、ひとつの映画から、たくさんのものが生まれてきます。

 

 

 

ここで書くことで、何かそういう経験がだれかのもとで生まれていけばいいなぁ、と、思っております。

 

 

 

 

そして今月末、はじめて記事が載ります。

 

 

 

taomoiya(タオモイヤ)さんという2人組ユニットが、毎月末に発行されている『雑文集』という文集です。

 

 

”友達の友達くらいが書いてる文集”ということで、エッセイや詩、写真、レビューなどの形式をとって表現されています。

 

 

 

taomoiyaさんと知り合ってから毎月愛読させていただいていますが、それぞれの方の個性がこんなにも伝わるものなんだな、と実感します。

 

 

 

今回ご縁があって『雑文集11』に記事を寄せてもらえ、これから毎月掲載させていただける、とのことです。

 

 

 

映画『アンナとアントワーヌ 愛の前奏曲』というレビューを書きました。

 

 

 

フランスの大人の恋愛を描いた作品ですが、人間の本質にも通じるようなメッセージ性に焦点をあてて、紹介しています。

 

 

 

 

『雑文集11』の入手方法です。

・10月30日~11月6日の期間、全国のセブンイレブンにある複合機で印刷できます。

・「ネットプリント」から、記事の番号を入力します。

 表紙:52574044 / 本文:00065208

・印刷代の280円だけかかります。

 

 

 

 

秋の夜長に、ぜひお読みいただければ嬉しいです。

 

 

 

『ふきげんな過去』(2016)

 

「海苔の本田の奥さん一人だけが正しくて、他が全部狂ってるのかもしれないじゃん」冒頭部の主人公・果子(二階堂ふみ)のこのセリフに心奪われた。

 

映画は何の説明もなしに会話がはじまる。運河?ワニ?ノリノホンダノオクサン?観ているこっちは正直ポカンだ。

次第に分かってくるのだが、どうやら海苔屋の本田という人がいて、その人の奥さんとの間の赤ん坊が東京のこの街の運河で、ワニに食われたのだと。そう言ってるのは海苔の本田の奥さんだけで、周囲は奥さんの頭が狂っていて、どうせ奥さん自身が殺したんだろうって言われている。しかも海水のあるここにワニなんかいるはずないだろうって。銛をもって運河を見つめ、ワニへの復讐を果たそうと一人たたずんでいる。

 

こんなとこの運河にワニなんかいない。いつだって常識ってものはつまらなく面白くない。そんな常識を世の大勢の人間は真実だと口をそろえて言うのだ。

 

 

 

そんな常識、クソくらえ。

 

 

 

この映画で起こっていることは、どれが真実で、どれが嘘なのか、観終わったあとでも分からない。

死んだはずの伯母・未来子(小泉今日子)が現れるが、飄々としていて生きた人間か、すでに死んでいる人間かも判別がつかない。若い頃から爆弾をつくりビルを爆破しただとか、今も爆弾づくりの腕(?)をめぐって組織から追われるだとか、「本当か?」と思えるような設定で物語はすすんでいく。

 

常識/非常識。真実/嘘。わたしたちは、はっきりと二分化された世界に慣れきってしまっている。

でも本当はちがうのだ。両者の境界は曖昧なもので、混じりあっていて、どちらともつかない世界が本当のすがたなのである。

この映画はそんな世界に浸ることができる。はっきりとした答えを強いたりしない世界に心地よさを感じられるのは、この映画の魅力である。

 

 

でも、そんな曖昧な世界のなかに、たったひとつだけ真実と分かるものがある。

 

 

迷子になった子どもの泣いて呼ぶ声。

街が眠るころ、家を抜け出し、小船に乗り、森をゆき、かつてはあった今はない村の御屋敷のお手洗いの跡で、爆弾の材料となる硝石を掘りおこす。

いとこの小学生のカナが、果子と未来子とはぐれてしまい、泣いて呼ぶのだ。「あの子迷子になったのかな」「そうね」「泣いてるね」「そうね」

 

誰もいなくて自分しかいない。不安におそわれ本能的に泣いて叫ぶ。”わたしはここにいる”と誰かに気づいてもらうために。

迷子が泣く理由はシンプルで明白だ。これ以外のほかの理由が入りこむ余地などない。

だから真実なのだ。この曖昧な世界のなかで、迷子が泣く声だけは確かさを持って響きわたる。

 

 

映画を観てからのある日、リオオリンピックの男子ゴルフが放映されていた。そして、そのゴルフコースに野生のワニが出没した。コースの池から頭を少しだけ出しているワニを見ながら、この世に起こりえないことなんてないのだと思った。

 

 

ふきげんな過去

2016/日/120分/東京テアトル/監督:前田司郎/出演:小泉今日子二階堂ふみ高良健吾、梅沢昌代、板尾創路

絶望のなかの希望―『わたしを離さないで』(2010)

 

 

 

※このレビューには物語の結末が含まれております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

主人公のキャシー、トミー、ルースは、臓器提供のために生みだされたクローン人間である。数度の提供がすめば死をむかえ、その短い一生を終える。人間としてではなく臓器をもった道具のような存在にすぎない。全編をとおして暗いタッチで描かれ、それは彼らが背負う未来のない運命、“死”を象徴しているかのようだ。

しかし、この映画は彼らの“死”を描いた作品ではない。ここには彼らの力強い“生”がある。どんなに絶望的な運命であろうと人間は生きようとする。“死”におおわれた世界のなかでも“生”へとむかう人間のすがた、それがこの映画が伝えたいことだ。

物語の終盤で、キャシーとトミーは長年の愛をみのらせる。この頃のトミーはすでに提供をおこなっており死に一歩ずつ近づいていた。二人はかつてデタラメだと言っていた「本当に愛し合う二人には提供までの猶予期間が与えられる」という噂を信じて申請にむかう。

ただ、そんな猶予期間は存在していなかった。幼少期をすごした寄宿学校の先生からその事実が告げられる。帰り道の途中で車をおりたトミーは運命をふりはらうかのように泣き叫び、彼を抱きとめるキャシーだった。

彼らの希望が打ち砕かれるこのシーンは観る者のこころを苦しくさせる。愛する者と一緒にいられず死を免れることはできない。その悲しみが痛いほど伝わってくる。

しかし先ほど述べたように、ここには生きようとする人間の力強さがある。トミーはキャシーとの愛を証明するためにずっと絵を描きためていた。たくさんの絵を先生に見せて必死にうったえるすがたは、愛する者と生きたいという強い想いのあらわれだ。

そもそも信じていなかった噂を信じようとしたのはなぜか。それはこの噂が彼らにとっての希望の光だったからだ。“死”がすぐそこに迫っていても、それに引きずりこまれることなく最後まで希望を胸に“生”を目指そうとしたのだ。

二人は“死”しかない自らの運命をなんとかして“生”に変えようとした。申請のために通された部屋で先生たちと向かいあう二人のすがたは、希望をもって絶望に勇敢に立ち向かうすがただった。希望をもった人間はゆるがない。それが人間の真の強さなのだろう。

キャシーたちは救われず、絶望的な運命を受け入れるしかない。それでもこの映画には絶望よりも希望の輝きのほうが色濃くうつしだされている。希望をもって“生”へと向かう人間の強さを私たちにうったえかける。

 

わたしを離さないで

Never Let Me Go/2010/英、米/105分/ 20世紀フォックス映画/監督:マーク・ロマネク/出演:キャリー・マリガンアンドリュー・ガーフィールドキーラ・ナイトレイ