ちょっとそこまで映画を観に行って

映画を観た感想・レビューを書きます。日常から少し離れて、でも気軽に観に行ける映画はいいもんです。

骨に同じ(映画「禅と骨」より)

 

激動の人生とは彼のことだ。実在した人間の一生涯を鮮烈に突きつけてくる。

 

アメリカ人の父と日本人の母をもつ、嵐山の天龍寺の禅僧ヘンリ・ミトワ。彼は1918年に横浜で生まれた。戦時中、肌の色からスパイではないかと警察に目をつけられ、父に会いに行くと渡米した先では日系人強制収容所に入ることになる。

 

日本とアメリカのはざまに生きたヘンリ。彼自身が翻弄された人生を送ったかといえばそうじゃない。この上ないくらいに好き勝手に彼は生きたのだ。

 

アメリカで所帯を持ったかと思うと、帰国して茶道を志す。日本に家族を呼び寄せて、天龍寺の禅僧となった。陶芸や文筆など「何でも屋」と自身を指すほどに、いろいろな活動に精力的に取り組む。

 

その中でもひときわ情熱を注いだのが映画である。御年80歳を前に「赤い靴をはいてた女の子」を原作とした映画をつくりたいと言ったのだ。それは映画に母への想いを込めよう思ったからではないかと知人は振り返る。

 

母を残し渡米して、生活が落ち着いても帰国することなく手紙でやり取りをする。そして再会できたのは母の墓前だった。生きて会うことができなかった母への強い想いが、ヘンリを映画製作に向かわせる。

 

個人的にはヘンリの家族の、彼に対するまなざしが印象的だった。生活費は妻に頼りっきりの時期もあり浮気もし、自由な父親に困惑する子どもたち。さまざまな葛藤があるなかでも、ヘンリのことを家族みんなが受け止めていた。家族のきずなを見たように思う。

 

そんな彼も骨になれば全部同じ、みんな同じ白い欠片になるだけ。そう思えば一度きりの人生、思うがまま生きてみてもいいのかもしれない。

 

 

禅と骨

2016/日/127分/監督:中村高寛/出演:ヘンリ・ミトワ、【ドラマパート】ウエンツ瑛士余貴美子、【ナレーション】仲村トオル

稲の波(映画「おじいちゃん、死んじゃったって。」より)

 

透きとおる空気が感じとれる映像美。田んぼの稲が風に吹かれるシーンが印象的だった。なぜかというとそれは決して失われることのない記憶だからだ。この映画のテーマは喪失のなかでも失われないものの尊さだと思う。

 

 

祖父の死。かぞくが一人いなくなった。それぞれの場所で暮らしてお互い何をしているか分からない親類同士が、このお葬式で一つ屋根の下に集まってくる。

 

 

「洋平くんって浪人してるんだよね」「(毛髪を黒く染めるスプレーを手渡して)千春!これやってくれよ」「あんたたちのおじいちゃんのお葬式で、わたしは他人で関係ないんだから」

 

 

自分の興味、関心、立場のことで頭がいっぱいだし、これまでずっと思ってきたことが爆発してみんなの本音がぶつかり合う。おじいちゃんのお葬式だというのにね。主人公の吉子も祖父の死を知らせる電話をとった時に恋人とセックスをしていたことに罪悪感を覚えつづけている。彼女はたびたびそんな現実をひとりごとのように口にする。

 

 

祖父の死をきちんと悲しむようなきれいごとの現実はどこにもない。ひとりのこされた認知症の祖母が老人ホームに入る手配は速やかに行われた。それはそれで嘘偽りない感じでこの映画に好感を持った理由だけど、このバラバラな親類たちがこれから先もずっと「かぞく」であり続けられるのかなぁと不安な気持ちだった。

 

 

それでも「かぞく」を繋ぎとめるのは、変わることのない過去の記憶だと思う。作中のところどころに稲が風に吹かれてなびくシーンがある。過去の記憶のひとつだと思った。農業をする祖父母の家を訪れたとき、誰もがこの稲の波の風景を目にしているはずだ。親類たちがバラバラの関係だろうと、祖父が死に祖母が認知症になったとしても、この風景の記憶は「かぞく」のなかで失われることはない。

 

 

吉子の弟、清太が「泥のついたしわくちゃの1000円札を小遣いで、こっそり握らせてくれたよなぁ」とかつて元気に農業をしていた祖母の想い出をふりかえる。洋平の妹、千春は「むかしよくここでサワガニとりにきたよね」と洋平に問いかける。認知症ながらも祖母のなかでは、祖父の想い出はくっきりと残されている。

 

 

祖父の死によって失われていく無常さが描かれる一方で、過去の記憶は消えることなくあたたかに残り続けるものだと教えてくれた。

 

 

かぞくってなんだろう。それぞれの場所で生きていても、どこかで共有する風景や想い出があって、ゆるやかに繋がり合う関係なのかな。映画のビジュアルのみんなで撮った家族写真を見るたびにそう思う。

 

 

おじいちゃん、死んじゃったって。

2017/日/104分/監督:森ガキ侑大/原作、脚本:山﨑佐保子/出演:岸井ゆきの岩松了、美保純、岡山天音水野美紀光石研小野花梨赤間麻里子、池本啓太、松澤匠

http://ojiichan-movie.com/index.html

 

夏の映画鑑賞期間・第二弾『グラン・ブルー』

 

夏といえば海が連想されます。わたしは泳げないので昔から砂浜の近いところで浮輪でぷかぷかと浮かんでいました。今回紹介する映画『グラン・ブルー』(1988、監督:リュック・ベッソン)は、えらい深~いところまで潜りますよ。フリーダイビングに打ち込んだ二人の男たちのお話です。

 

 

ギリシャの島で育った幼馴染のジャック(ジャン=マルク・バール)とエンゾ(ジャン・レノ)。二人とも子どもの頃から素潜りが得意です。

 

 

エンゾはガキ大将的ポジションでみんなの前で潜りを披露していました。一方ジャックは内気な性格で表舞台には立とうとしない、でも素潜りの腕は確かっていう。エンゾはそんなジャックのことを内心認めていました。

 

 

時が過ぎ、二人は大人になります。世界チャンピオンとなったエンゾと、細々と調査の手伝いで素潜りをするジャック。“記録があっても、あいつ(=ジャック)の出場していない大会なんて意味がない!”と思い立ったエンゾは、ジャックに大会に出るよう促します。

 

 

こうして二人は競い合うことになるのですが、いやぁ、この映画で初めてフリーダイビングの大会を見まして興味深かったです。少し昔の映画なので現在は分かりませんが、作中でのダイビングの様子はこうです。

 

 

ダイバーの前に自転車のハンドルみたいな持ち手の機械があって、そいつを握ってガシャコン!っつって潜ります。重いからなのか、その機械に誘導されるようずんずん海の深みを目指します。

 

 

そしたら60m付近で医療班のチェックを受けて、さらに90m付近にも待機しているダイバーがいて選手の記録を見届けます。挑戦者は酸素ボンベなし、自分の息のみでの競技ですから、まさに命がけの大会ですね。

 

 

その大会のなかで、エンゾのジャックに対する勝ちへの執念は並大抵のものではありません。二人とも優れたダイバーで互いの記録を打ち破り合うのですが、ジャックが上回っていきます。なぜかというと、潜水中のジャックの体内では特別なはたらきが起こっていて、もはや人間離れしているのだそう。

 

 

その理由から「もうやめとけ」って周囲から言われます。でもその言葉、エンゾの立場だったら冷静に聞けるでしょうか?子どもの頃から今まで、潜水が自分の誇りだった。そして昔からのライバルとの勝負を胸に秘め、ここまでやってきた。そんな彼が負けを素直に受け入れられるはずありません。

 

 

そんなエンゾやジャックの心の動きが、映画の終盤にかけて丁寧に描かれています。まさに男のプライドを賭けた闘い。心がジーンと熱くなります。

 

 

男同士の潜水対決も見どころですが、ジャックの恋愛模様も見逃せません。ヒロインのジョアンナ(ロザンナ・アークエット)は仕事の訪問先でジャックと運命的な出逢いをして、一目で恋に落ちます。そのシーンは映画のわりとはじめらへんにあります。どこか面白くもありますが、ビビッときちゃいますので、ジョアンナになった気分で観るのがおすすめですよ。

 

 

そんなこんなで二人の距離は近づいていって恋人の仲になります。よっしゃあ!って思うでしょうが、切ない事態が起こります。ジョアンナは子どもが欲しくて幸せな結婚生活をイメージするのですが、ジャックはどこか上の空で二人の心はすれ違ってしまいます。

 

 

子どもの頃に海で父親を亡くし、母親もいなかったジャックは、プールのイルカたちが家族でした。家族というものを知らずに育ったジャックにとって、彼女と家庭を築くことに実感が持てなかったようです。ジョアンナがそのことを訴えれば訴えるほど、ジャックはそれよりも海やイルカを強く求めてしまいます。

 

 

ジャックというより潜水士の性とでも言いましょうか、陸での生活よりも海の中にいることを望んでしまう。そんな彼らの心情を理解するにはいい映画です。

 

 

全編を通して、泳ぐ人間のしなやかさやイルカとの遊泳のシーンに惹きつけられます。泳げなくても泳いだ気になれますので、海を体感したい方には楽しめる映画だと思います。あと、ラストは息をのむほど美しく幻想的なシーンです。夏の最後の想い出にのこるようなワンシーンになるはずですので、ぜひお楽しみください。

 

 

 

グラン・ブルー

Le Grand Blue/R15+/1988/仏、伊/169分/監督:リュック・ベッソン/出演:ジャン=マルク・バール、ジャン・レノロザンナ・アークエット、ポール・シェナー

夏の映画鑑賞期間・第一弾『フラガール』

 

8月も末でして、夏も終わりに近づいています。最後に夏を満喫しようと“ザ・夏!映画”鑑賞期間中。その期間で観た映画について紹介しようと思います。

 

 

第一弾は『フラガール』(2006年、監督:李相日)です。ド直球の夏映画やぁ!とパッと思いつきで選んだのですが、これ夏の話じゃないんですよ。「フラダンス踊って楽しい映画~Aloha~♪」的なの想像してたら全然違いました。

 

 

昭和40年代、福島のいわき市。時代の影響で炭鉱の仕事が閉鎖に追い込まれかけた町が舞台です。この仕事に誇りを持っているけど、「私らの生活どうなっていくんやろうねぇ…」とどんより不安に覆われております。

 

 

そんな村の再起を試みようとハワイアンセンターという施設のプロジェクトを立ち上げる人たちが出てきます。新しい挑戦ですが、多くの村人たちから冷た~い目で見られてしまいます。

 

 

どちらにも転ばない感じでゆらゆら~ってしてる時に、純粋なひとりの少女が「ダンサーになりたい!」って方言まじりの情熱のこもった声で名乗りをあげます(フラダンスのショーもハワイアンセンターの目玉イベントでダンサーの募集をしていたのです)。東京からプロのダンサーの先生をお招きして、素人同然の集まってきた娘たちをしっかりしたダンサーに鍛えあげていくお話です。

 

 

スポ根映画ですか?はい、もちろん。ストーリーの筋からしても「そうです」って言わなあかんくらいですね。南海キャンディーズしずちゃんが演じてた小百合ちゃんは、先生厳しすぎて泣いて外を走りに出て行っちゃいますから。

 

 

ただ前述のとおり、この映画の空気感は炭鉱の村人たちの明日への不安です。名乗りをあげた子をはじめ、集まってきた女の子たちはそんな空気感に立ち向かい「未来を切り拓いていきたい!」という想いも背景にあります。

 

 

若い娘たちが未来を背負ってんだ、泣かせてくれるぜって親身になって観ていました。そんな彼女たちの渾身のフラダンスが美しくないはずがない!ダンスの熱気が渦巻くような迫力のシーンに仕上がっています。各ダンスシーン必見です。

 

 

何度もくどいようですが、それと同時に、炭鉱の仕事に誇りを持った村人たちの苦しみが痛いほど伝わってくる映画でもあります。30年勤めて紙キレ一枚で解雇かよ?!って腹立ちはもっともだけど、お父さん、娘に手をあげてはいけません。彼らの誇りが傷つけられるなかで、新しい波(=ハワイアンのプロジェクトね)を受け入れられない葛藤を丁寧に描いています。

 

 

フラダンスのダンサーになった彼女たちを先頭に、これからつくられていく新しい時代ってどんなんでしょかね?この映画でぜひ一緒に目撃しましょう。

 

音の魅力(映画『パーソナル・ショッパー』より)

 

何に圧倒されたかといえば、間違いなく“音”だ。

 

* * *

 

 

映画の宣伝用ビジュアルでは主人公モウリーン(クリステン・スチュワート)がきらびやかな洋服を着ている。ファッションの話から始まると思いきや、冒頭、ホラー映画のような恐怖と緊迫感に包まれる。

 

 

夜の闇が立ち込める誰もいない大きな屋敷。木造の階段を一段ずつのぼるたびに、ギィギィと不気味な音がする。

 

 

霊的な能力を持つモウリーンは、この屋敷に潜むものが何かを見極めようと、ゆっくりと慎重に踏み板をふむ。彼女の心情がそのままギィギィという音に表れているのだ。

 

 

カメラワークも実に巧妙である。緊張した表情が見えるよう真正面から、また背後から彼女が見ている光景を映し出す。

 

 

音と映像とがあいまって、観客に怯えを植えつけてくれた冒頭のシーンはとても印象深い。

 

 

* * *

 

 

モウリーンは“パーソナル・ショッパー”である。忙しいセレブに代わって高価な洋服やアクセサリーを買いつける仕事だ。

 

 

毎日その仕事を淡々とこなしているが、一方で彼女は失意のなかにあった。自分と同じ霊的な能力を持った双子の兄・ルイスを亡くしたからである。

 

 

能力を通じて死んだ兄から何らかの“サイン”が届くのをモウリーンは待ち続けていた。冒頭の屋敷でもその存在を探っていたのだが、はっきりとした“サイン”は現れない。

 

 

そんなある日、モウリーンの携帯電話に奇妙なメッセージが届く。乱暴な口調で兄ではないようだ。

 

 

モウリーンはその相手とのやり取りに没入する。“買い付けるだけじゃなくて本当はその洋服を着たいんだろう?”と、自分の知らなかった一面を引き出されていく。

 

 

そして次第にその相手の要求は過激になっていき、ついには事件に巻き込まれてしまうというストーリーだ。

 

  

この映画の特徴は“目に見えない相手との対話”である。冒頭でも、携帯電話のメッセージでも、正体が分からない相手とモウリーンは対話を試みる。

 

 

メッセージなら文面を見れば意味を読みとれるが、終盤のあるシーンでは“音”だけでコミュニケーションをしている。幽霊なのか、その目にみえない相手にモウリーンが質問をする。その返答でイエスなら“音”を1回、ノーなら“音”を2回鳴らすという具合に。

 

 

エスかノーかを知るなら“音の回数”を気にすればいい。ただ、相手の真意を知るには“音の間合い”が重要だと、このシーンは伝えている。

 

 

返答の内容がノーであっても、すぐに答えたのか、ためらいがちに間合いを持って答えたのかでは意味合いが違う。これは普段の私たちのコミュニケーションでも経験があるだろう。発話者の意図は間合いにこそ現れる。

 

 

そんなコミュニケーションの深部を“音”だけで表現したのは見事である。

 

 

* * *

 

 

携帯電話でのメッセージのやり取りがきっかけで、モウリーンはクライアントのセレブの家で自分が買い付けた洋服を身につけていく。仕事上では禁じられているがメッセージの相手に後押しされ、彼女はおそるおそる腕を通す。

 

 

このシーンでも興味深い“音”が流れる。かわいらしいメルヘンチックなBGM、まるでシンデレラが魔法で美しいプリンセスへと変貌を遂げるような音楽だ。

 

 

Tシャツとジーンズというシンプルな普段着から、セレブの世界で着られている洋服を身にまとう。

 

 

これも一種の変身といえるが、プリンセスのような陽気さはなく、どこか影の気配を感じるシーンである。それはモウリーンが縛られていたルールを破り、禁じられていたことをしているからだ。

 

 

今までの自分から新しい自分へと生まれ変わる。その最中の彼女の表情、動き方は、少しの怯えからかぎこちない。それでも違う自分になるため、一歩ずつ近づいていく。

 

 

そんな彼女の緊張をよそに流れる、このかわいらしい音楽は不気味で、耳から離れなかった。

 

 

 

パーソナル・ショッパー

Personal Shopper/2016/仏/105分/東北新社、STAR CHANNEL MOVIES/監督:オリヴィエ・アサイヤス/出演:クリステン・スチュワート、ラース・アイディンガー、シグリッド・ブアジズ

刮目すべき写真家の生態(映画「Don’t Blink ロバート・フランクの写した時代」より)

 

Don’t Blink(=まばたきせずに)と言われても、申し訳ない、何度もまぶたが下りてくるのと格闘しながら観ていた。

 

このドキュメンタリーは展開がはやい。

現像技師の話を聞いていたかと思えば別の友人や20歳で亡くなった最愛の娘の話になる。嫌悪がにじむほどの過去のインタビュー映像が切れ切れに挿入されたり、写真のカット、ロバートが撮った映画が流れては止まりまた流れたりする。

著名な歌手たちの曲がBGMとして聞こえ、とにかくお祭りドンチャン騒ぎのようなドキュメンタリーである。

 

 

観客は置いてけぼり。

悪くいえばそうなる。だが、これこそアーティストの生態を映した真の映画なのだ。

ロバートも「私が言いたいことは全て写真のなかにある」と言う。作品を生み出すアーティストに、その作品に対する丁寧な説明を求めるのは野暮ではないか。

 

つべこべ言わず作品を見よ。そこから何かを感じ取れ。

 

観客にこびない、あえて突き放すようなロバートのアーティスト気質を見事に体現した映画だといえる。

 

 

画面の切り替わりは多いが、『The Americans』が出版当初さまざまな批判を受け10年もたってから評価されるに至ったこと、移民であること、写真で生計を立てるむずかしさなど、ロバートの断片的な語りがやけに鮮明に頭にのこる。

 

 

写真を撮るとき、被写体がカメラを意識しない無防備な状態を狙うと彼は話した。

人間の本質をうつしとりたい、と。

私は映画のレビューを書くが、映画のなかで些細だけれどとても大事なワンシーンの瞬間を記憶にとどめ文章に書き起こす。

「一瞬をハンターのように狩る」という言葉は私の胸に刻み込まれた。

まばたきせずに目を凝らし、その一瞬を決して逃してはならない。

何かを生み出す人間にとって彼の言葉は教訓となりうるだろう。

 

 

Don’t Blink ロバート・フランクの写した時代

Don’t Blink – Robert Frank/2015/米、仏/82分/テレビマンユニオン/ローラ・イスラエル

http://robertfrank-movie.jp/

 

声の届く先(映画『標的の島 風かたか』より)

 

どうしてあれだけ怒って鬼気迫るように座り込みを続けるのか。

三上監督の映画を見るたびに染み込むように分かってきた。

 

 

自分より前の世代が体験した沖縄戦、後の世代の未来。

その間で今生きている自分たちが「風かたか」(=風除け)になるため必死で闘っているからだ。

 

 

日本の軍隊は沖縄住民の命を守らなかった。

戦争でその現実を知っているから、どんなに政府が説明会(肝心な内容は答えない建前だけのもの)を開くと言っても、沖縄の人たちの声を聞く深刻さは持っていない。

 

 

ひとりの人間として純粋に、三線で沖縄の歌をうたう声に心が震えた。

本当に伝えたい強い想いは人を感動させる。

博治さんが警察官に対し、標準語から沖縄口で話しはじめた時もである。

 

 

『戦場ぬ止み』でも思ったが、沖縄の声が届くべきなのはそこに住んでいない大勢の人間たち、警察官として直に声を聞き続ける人間たちだと思う。

 

 

自分の生活を送り、任務を全うする普通の「私たち」だ。

沖縄に住む人たちと同じ「私たち」なのである。

“兵士Aくんの歌”に乗せて映される映像はそのことを訴えている。

自身に降りかからなければ他人事では、もう、すまされないところまできている。

 

 

もうひとつ、三線の日に反対座り込みをしていた男性が、三線にのせて抗議の歌をうたうのは本当は嫌だけどね、と言っていた言葉は忘れられない。

 

 

標的の島 風かたか

2017/日/119分/東風/監督:三上智

http://hyotekinoshima.com/