日常と映画と

映画も日常も、なくてはならないものです。

作文「お父さんに伝えたいことがあります。」

今週のお題「おとうさん」

 

わたしのお父さんは、なんでも直してくれます。

 

一番ありがたいのは自転車です。小学校の頃から乗っている自転車は十数年たった今でも乗ることができます。それはお父さんがメンテナンスをしてくれるからです。食事の時間に「自転車がキーキー鳴る」「鍵のところがうまく動かない」などと、わたしは勝手ながら口にしてみると、「おう、そしたら直しといたるわ」と必ず返事があります。それでなくても休みの日に、お父さんが空気を入れたり、オイルを差したりしてくれるおかげで、わたしはすいすい自転車に乗れちゃっています。

 

ありがとう、お父さん。

 

わたしのお父さんは、車に乗せてくれます。

 

家からだと駅がすこし遠いので送ってくれたり迎えにきてくれたりします。わたしやお母さんやお姉ちゃんが「〇〇に行きたい」と言えば「分かった、何時くらいに出るんや」とすぐに答えてくれます。また、わたしは高校生のときにめまいがして歩くことが難しくなりました。平日は母が付き添って歩いて電車に乗って、土曜はお父さんがお母さんを乗せて迎えにきてくれました。近所のおじちゃんも送り迎えをしてくださったことがあります。お母さん、お父さん、みなさん。本当にありがとう。

 

あ、お父さん以外の人にもお礼を言っちゃってお題から離れちゃったけど、たくさんの人に「ありがとう」を言えることはいいことなので、このままにしておきます。

 

ありがとう。

 

わたしのお父さんは、いてくれてありがたいです。

 

不器用なところや人付き合いが苦手なところがあるけれど、いつも誰かのことを想っています。不満をもらさず淡々としているけれど、テレビのクイズ番組に答えるところとかなんだかおもしろいです。不満をもらさず、すぐに何でもやるところはわたしは難しいので、お父さんのことを見習おうと思います。お父さんの娘でよかった。だんだん歳もとってきたし、あまり無理はしないでね。

 

いつもありがとう、お父さん。

 

 

雨、たのしんじゃってる?

今週のお題「雨の日の楽しみ方」


わたしは雨の音を楽しみます。家にいるときはいつも雨の音に耳をすませています。最近気づいたのは、降り始めのときは「からから」と「さらさら」が混じっていて「かさらかさら」に聞こえました。日によってちがう気がします。今日はどんな音かを言葉で表現すると楽しそうです。






外出中は傘を変えて楽しみます。今日の傘、このあいだの傘。色のちがう傘を持ちます。傘を差したなかからちょっとだけみえる世界の色が変わってみえます。そうすると気分がちがいます。今は、薄めのグレー、ちょっぴり白っぽさの濃いグレーのものがお気に入りです。すこしだけ世界が明るくみえます。





あとは水たまりのかたちです。映画『台北暮色』(2017年、監督:ホアン・シー)で水たまりのシーンをみてから、水たまりを気にするようになりました。この前歩いていると「立ち入り禁止」の看板に手を広げた人の絵がのっていたのですが、その立ち入ってはいけない場所の水たまりが、まさにその絵の人のかたちとおなじだったのです。雲とおなじように、水たまりのかたちが何にみえたか考えます。





けっこう、わたしは雨の日、たのしんじゃってるみたいです。


愛と行く果て-映画「愛がなんだ」より



※この記事は映画の結末に触れております。













さわやかな恋愛、とはいかない。








主人公のテルコは想いを寄せる田中守にとって都合のいい女。「来てくれ」とは言わず、やんわりと「もし、もしだよ、」などと守は言う。テルコはそれを求められているから、と嬉々として守の家へと急ぐ。









馬鹿だなぁとわたしは言いたい。テルコではなくわたしに、だ。わたしも好きな人に一直線だった。「好き」という感情だけで相手の心に土足で踏み込んだり、会えることを待ち望んだりして自分を見失っていた。愛ってなんだ?この映画では愛のかたちが提示される。










テルコの守への愛は、わたしは愛だったと思う。しかしそれは愛のおそろしい一側面である。「好きになる要素なんてなんにもない男なのに」「そうだね、でも好きっていう単純な理由なんだよ」と守とテルコがベッドで話すシーンがある。「好きという単純な理由」がエスカレートすると、愛を通り越して固執である。守にはすみれさんという好きな女性がいて、彼女に合うための口実としてテルコは利用されるのだが、それでも守のそばにいるためなら受け入れる結末である。









これは愛の行く果てだ。そこには、相手も自分すらもいない。テルコが会社を辞める時にお昼ごはんを一緒に食べた同僚は「自分すらもどうでもよくなっちゃうんですか」とテルコに尋ねた。愛のままであり続けることも、愛の行く果てまで進んでしまうのも、選択は恋愛をする当人たちにゆだねられているということである。











一方で愛を抱きつづけることを選んだ人もいる。中原くんだ。彼は葉子の都合のいい男だったが「葉子さんがさびしいときに、中原いるじゃんって位置にいたいんすよ」と言っていた。中原くんが自分自身を大切にできていない、つらい愛情だった。自分が葉子の側にいることで葉子をだめにしていると自ら身を引く。そして写真を撮るという立場から葉子を見守っていた。個展のシーンで心が通い合う瞬間がいとおしい。











ずっと側にいることか、離れたとしても相手を想うことか。すべてひっくるめて愛だということを知った。しあわせになりたいっすねぇ。自分のこともだけど、相手のことも含んだ言葉なのだ。



骨に同じ(映画「禅と骨」より)

 

激動の人生とは彼のことだ。実在した人間の一生涯を鮮烈に突きつけてくる。

 

アメリカ人の父と日本人の母をもつ、嵐山の天龍寺の禅僧ヘンリ・ミトワ。彼は1918年に横浜で生まれた。戦時中、肌の色からスパイではないかと警察に目をつけられ、父に会いに行くと渡米した先では日系人強制収容所に入ることになる。

 

日本とアメリカのはざまに生きたヘンリ。彼自身が翻弄された人生を送ったかといえばそうじゃない。この上ないくらいに好き勝手に彼は生きたのだ。

 

アメリカで所帯を持ったかと思うと、帰国して茶道を志す。日本に家族を呼び寄せて、天龍寺の禅僧となった。陶芸や文筆など「何でも屋」と自身を指すほどに、いろいろな活動に精力的に取り組む。

 

その中でもひときわ情熱を注いだのが映画である。御年80歳を前に「赤い靴をはいてた女の子」を原作とした映画をつくりたいと言ったのだ。それは映画に母への想いを込めよう思ったからではないかと知人は振り返る。

 

母を残し渡米して、生活が落ち着いても帰国することなく手紙でやり取りをする。そして再会できたのは母の墓前だった。生きて会うことができなかった母への強い想いが、ヘンリを映画製作に向かわせる。

 

個人的にはヘンリの家族の、彼に対するまなざしが印象的だった。生活費は妻に頼りっきりの時期もあり浮気もし、自由な父親に困惑する子どもたち。さまざまな葛藤があるなかでも、ヘンリのことを家族みんなが受け止めていた。家族のきずなを見たように思う。

 

そんな彼も骨になれば全部同じ、みんな同じ白い欠片になるだけ。そう思えば一度きりの人生、思うがまま生きてみてもいいのかもしれない。

 

 

禅と骨

2016/日/127分/監督:中村高寛/出演:ヘンリ・ミトワ、【ドラマパート】ウエンツ瑛士余貴美子、【ナレーション】仲村トオル

稲の波(映画「おじいちゃん、死んじゃったって。」より)

 

透きとおる空気が感じとれる映像美。田んぼの稲が風に吹かれるシーンが印象的だった。なぜかというとそれは決して失われることのない記憶だからだ。この映画のテーマは喪失のなかでも失われないものの尊さだと思う。

 

 

祖父の死。かぞくが一人いなくなった。それぞれの場所で暮らしてお互い何をしているか分からない親類同士が、このお葬式で一つ屋根の下に集まってくる。

 

 

「洋平くんって浪人してるんだよね」「(毛髪を黒く染めるスプレーを手渡して)千春!これやってくれよ」「あんたたちのおじいちゃんのお葬式で、わたしは他人で関係ないんだから」

 

 

自分の興味、関心、立場のことで頭がいっぱいだし、これまでずっと思ってきたことが爆発してみんなの本音がぶつかり合う。おじいちゃんのお葬式だというのにね。主人公の吉子も祖父の死を知らせる電話をとった時に恋人とセックスをしていたことに罪悪感を覚えつづけている。彼女はたびたびそんな現実をひとりごとのように口にする。

 

 

祖父の死をきちんと悲しむようなきれいごとの現実はどこにもない。ひとりのこされた認知症の祖母が老人ホームに入る手配は速やかに行われた。それはそれで嘘偽りない感じでこの映画に好感を持った理由だけど、このバラバラな親類たちがこれから先もずっと「かぞく」であり続けられるのかなぁと不安な気持ちだった。

 

 

それでも「かぞく」を繋ぎとめるのは、変わることのない過去の記憶だと思う。作中のところどころに稲が風に吹かれてなびくシーンがある。過去の記憶のひとつだと思った。農業をする祖父母の家を訪れたとき、誰もがこの稲の波の風景を目にしているはずだ。親類たちがバラバラの関係だろうと、祖父が死に祖母が認知症になったとしても、この風景の記憶は「かぞく」のなかで失われることはない。

 

 

吉子の弟、清太が「泥のついたしわくちゃの1000円札を小遣いで、こっそり握らせてくれたよなぁ」とかつて元気に農業をしていた祖母の想い出をふりかえる。洋平の妹、千春は「むかしよくここでサワガニとりにきたよね」と洋平に問いかける。認知症ながらも祖母のなかでは、祖父の想い出はくっきりと残されている。

 

 

祖父の死によって失われていく無常さが描かれる一方で、過去の記憶は消えることなくあたたかに残り続けるものだと教えてくれた。

 

 

かぞくってなんだろう。それぞれの場所で生きていても、どこかで共有する風景や想い出があって、ゆるやかに繋がり合う関係なのかな。映画のビジュアルのみんなで撮った家族写真を見るたびにそう思う。

 

 

おじいちゃん、死んじゃったって。

2017/日/104分/監督:森ガキ侑大/原作、脚本:山﨑佐保子/出演:岸井ゆきの岩松了、美保純、岡山天音水野美紀光石研小野花梨赤間麻里子、池本啓太、松澤匠

http://ojiichan-movie.com/index.html

 

夏の映画鑑賞期間・第二弾『グラン・ブルー』

 

夏といえば海が連想されます。わたしは泳げないので昔から砂浜の近いところで浮輪でぷかぷかと浮かんでいました。今回紹介する映画『グラン・ブルー』(1988、監督:リュック・ベッソン)は、えらい深~いところまで潜りますよ。フリーダイビングに打ち込んだ二人の男たちのお話です。

 

 

ギリシャの島で育った幼馴染のジャック(ジャン=マルク・バール)とエンゾ(ジャン・レノ)。二人とも子どもの頃から素潜りが得意です。

 

 

エンゾはガキ大将的ポジションでみんなの前で潜りを披露していました。一方ジャックは内気な性格で表舞台には立とうとしない、でも素潜りの腕は確かっていう。エンゾはそんなジャックのことを内心認めていました。

 

 

時が過ぎ、二人は大人になります。世界チャンピオンとなったエンゾと、細々と調査の手伝いで素潜りをするジャック。“記録があっても、あいつ(=ジャック)の出場していない大会なんて意味がない!”と思い立ったエンゾは、ジャックに大会に出るよう促します。

 

 

こうして二人は競い合うことになるのですが、いやぁ、この映画で初めてフリーダイビングの大会を見まして興味深かったです。少し昔の映画なので現在は分かりませんが、作中でのダイビングの様子はこうです。

 

 

ダイバーの前に自転車のハンドルみたいな持ち手の機械があって、そいつを握ってガシャコン!っつって潜ります。重いからなのか、その機械に誘導されるようずんずん海の深みを目指します。

 

 

そしたら60m付近で医療班のチェックを受けて、さらに90m付近にも待機しているダイバーがいて選手の記録を見届けます。挑戦者は酸素ボンベなし、自分の息のみでの競技ですから、まさに命がけの大会ですね。

 

 

その大会のなかで、エンゾのジャックに対する勝ちへの執念は並大抵のものではありません。二人とも優れたダイバーで互いの記録を打ち破り合うのですが、ジャックが上回っていきます。なぜかというと、潜水中のジャックの体内では特別なはたらきが起こっていて、もはや人間離れしているのだそう。

 

 

その理由から「もうやめとけ」って周囲から言われます。でもその言葉、エンゾの立場だったら冷静に聞けるでしょうか?子どもの頃から今まで、潜水が自分の誇りだった。そして昔からのライバルとの勝負を胸に秘め、ここまでやってきた。そんな彼が負けを素直に受け入れられるはずありません。

 

 

そんなエンゾやジャックの心の動きが、映画の終盤にかけて丁寧に描かれています。まさに男のプライドを賭けた闘い。心がジーンと熱くなります。

 

 

男同士の潜水対決も見どころですが、ジャックの恋愛模様も見逃せません。ヒロインのジョアンナ(ロザンナ・アークエット)は仕事の訪問先でジャックと運命的な出逢いをして、一目で恋に落ちます。そのシーンは映画のわりとはじめらへんにあります。どこか面白くもありますが、ビビッときちゃいますので、ジョアンナになった気分で観るのがおすすめですよ。

 

 

そんなこんなで二人の距離は近づいていって恋人の仲になります。よっしゃあ!って思うでしょうが、切ない事態が起こります。ジョアンナは子どもが欲しくて幸せな結婚生活をイメージするのですが、ジャックはどこか上の空で二人の心はすれ違ってしまいます。

 

 

子どもの頃に海で父親を亡くし、母親もいなかったジャックは、プールのイルカたちが家族でした。家族というものを知らずに育ったジャックにとって、彼女と家庭を築くことに実感が持てなかったようです。ジョアンナがそのことを訴えれば訴えるほど、ジャックはそれよりも海やイルカを強く求めてしまいます。

 

 

ジャックというより潜水士の性とでも言いましょうか、陸での生活よりも海の中にいることを望んでしまう。そんな彼らの心情を理解するにはいい映画です。

 

 

全編を通して、泳ぐ人間のしなやかさやイルカとの遊泳のシーンに惹きつけられます。泳げなくても泳いだ気になれますので、海を体感したい方には楽しめる映画だと思います。あと、ラストは息をのむほど美しく幻想的なシーンです。夏の最後の想い出にのこるようなワンシーンになるはずですので、ぜひお楽しみください。

 

 

 

グラン・ブルー

Le Grand Blue/R15+/1988/仏、伊/169分/監督:リュック・ベッソン/出演:ジャン=マルク・バール、ジャン・レノロザンナ・アークエット、ポール・シェナー

夏の映画鑑賞期間・第一弾『フラガール』

 

8月も末でして、夏も終わりに近づいています。最後に夏を満喫しようと“ザ・夏!映画”鑑賞期間中。その期間で観た映画について紹介しようと思います。

 

 

第一弾は『フラガール』(2006年、監督:李相日)です。ド直球の夏映画やぁ!とパッと思いつきで選んだのですが、これ夏の話じゃないんですよ。「フラダンス踊って楽しい映画~Aloha~♪」的なの想像してたら全然違いました。

 

 

昭和40年代、福島のいわき市。時代の影響で炭鉱の仕事が閉鎖に追い込まれかけた町が舞台です。この仕事に誇りを持っているけど、「私らの生活どうなっていくんやろうねぇ…」とどんより不安に覆われております。

 

 

そんな村の再起を試みようとハワイアンセンターという施設のプロジェクトを立ち上げる人たちが出てきます。新しい挑戦ですが、多くの村人たちから冷た~い目で見られてしまいます。

 

 

どちらにも転ばない感じでゆらゆら~ってしてる時に、純粋なひとりの少女が「ダンサーになりたい!」って方言まじりの情熱のこもった声で名乗りをあげます(フラダンスのショーもハワイアンセンターの目玉イベントでダンサーの募集をしていたのです)。東京からプロのダンサーの先生をお招きして、素人同然の集まってきた娘たちをしっかりしたダンサーに鍛えあげていくお話です。

 

 

スポ根映画ですか?はい、もちろん。ストーリーの筋からしても「そうです」って言わなあかんくらいですね。南海キャンディーズしずちゃんが演じてた小百合ちゃんは、先生厳しすぎて泣いて外を走りに出て行っちゃいますから。

 

 

ただ前述のとおり、この映画の空気感は炭鉱の村人たちの明日への不安です。名乗りをあげた子をはじめ、集まってきた女の子たちはそんな空気感に立ち向かい「未来を切り拓いていきたい!」という想いも背景にあります。

 

 

若い娘たちが未来を背負ってんだ、泣かせてくれるぜって親身になって観ていました。そんな彼女たちの渾身のフラダンスが美しくないはずがない!ダンスの熱気が渦巻くような迫力のシーンに仕上がっています。各ダンスシーン必見です。

 

 

何度もくどいようですが、それと同時に、炭鉱の仕事に誇りを持った村人たちの苦しみが痛いほど伝わってくる映画でもあります。30年勤めて紙キレ一枚で解雇かよ?!って腹立ちはもっともだけど、お父さん、娘に手をあげてはいけません。彼らの誇りが傷つけられるなかで、新しい波(=ハワイアンのプロジェクトね)を受け入れられない葛藤を丁寧に描いています。

 

 

フラダンスのダンサーになった彼女たちを先頭に、これからつくられていく新しい時代ってどんなんでしょかね?この映画でぜひ一緒に目撃しましょう。